2010年12月28日火曜日

「ツチヤ」の話

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● 文芸春秋9月号


 文芸春秋の「同級生交歓」にツチヤが載っていた。
 どうしてかというと、週刊文春に「ツチヤの口車」というエッセイを連載している関係である。
 いまもこの連載続いているかどうかは知らない。
 ここでは本屋さんで立ち読みなんてことはなかなかできないから。
 日本食品店にもいくつかの週刊誌がおいてある。
 週刊現代、週刊ポスト、週刊新潮など。
 週刊文春っておいてあったかどうか、定かでない。
 でもどの本もビニボンになっている。
 といってもエロ本のことではない。
 ビニール袋に詰められ封がしてあって、その内容を伺うことはできないようになっているのである。
 内容は表紙に印刷されたタイトルだけしかわからない。
 もし、表紙に印刷されないようなセコイ内容なら、永久にわからない。
 ちなみに、週刊新潮での「ツチヤの腹のうち」という連載であったら、この同級生交歓には載らなかったのではないだろうか。

 あだ名は「笑う哲学者」とか「ジーパン教授」とかいろいろあるらしい。
 確かにこの写真でもジーンズをはいている。
 後ろの書棚からすると研究室のようにも見える。
 以前の話だが、小学校の先生がいつもジャージ姿で授業をするため、父母から不謹慎だというクレームがつき、スーツ姿にさせられたことがあった。
 これマスコミにも大きく取り上げられていたのでご存知の人もいるかと思う。
 ツチヤは良妻賢母の教育を施すべく設立されている国が作った女子大学で教えていた。
 「いた」、というのは今年定年退官(退職ではなく退官である)して、老齢年金生活者になったはずだから。
 でもそれまではこの先生、どうもジーパン姿で良妻賢母のタマゴに哲学を教えていたらしい。
 だいたい哲学者なんていうのは、能書きだけの常識はずれの嫌われ者というのが一般的で、周囲の人もそれを「まあ、いてもいいや」といやいやながらも認めているアンタッチャブルな存在である。
 どうもそれをよいことにツチヤはジーンズで講義していたらしい。
 今、公立の小学校の先生はちゃんとしたソシアルな服装をしている。
 ちびまる子ちゃんの先生をみればそれは明瞭だ。
 なのにツチヤは。

 もし生まれたところが近所なら、私とツチヤは小学校で席を同じくしていたかもしれない。
 でもそれはなかった。
 似ているところがあるとすれば、同じ年に老齢年金受給資格を得たことだけなのだが。
 私はちゃんと社会常識を守って、家にいるときはジーンズだが外に出るときはズボンをはき替えている。
 だが、どうもツチヤはそれをしていないらしい。
 ということは、ツチヤは社会に甘えかかっているということである。
 社会にはつねに暗黙のルールというものがある。
 それが哲学論の基底をなす。
 こういう社会の甘えん坊が果たして哲学を論じていいものであろうか。
 それも女子大で。
 良妻賢母のヒヨコに。
 まあ、それも終わったが。


 なぜ、ツチヤの話をするかというと、日本から「妻と罰」という本が送られてきたからである。
 週刊文春に連載されているエッセイをまとめたものである。
 これまで3冊の本を日本からもらっている。
 エッセイの掲載順に並べてみよう。

 『ツチヤの口車』   2003/01/30号~2004/03/11号


 『妻と罰』       2005/05/12号~2006/06/22号


 『ツチヤの貧格』   2006/06/29号~2007/08/09号



 これですぐわかるように、非常におかしなことがある。
 前後の2冊には「ツチヤ」が入っている。
 ところが、「妻と罰」にはなぜかそれが抜けている。
 あの顕示欲の塊のようなツチヤがである。
 「妻と罰」はもちろんドフトエフスキーの「罪と罰」のモジリである。
 なぜ「ツチヤ」が入っていないのか。
 もし強引に入れるとこうなる。
 『ツチヤの妻と罰』
 これだとツチヤの奥さんに焦点が絞られていく。
 相当に危険、入れない方がいい。
 一服盛られる可能性が非常に高くなる。
 
 日本人に「罪と罰」以上に読まれた本がある。
 ベネデイクトの「罪と恥」。
 これにツチヤを入れてみる。
 『ツチヤの罪と恥』
 これはツチヤにぴったりフィットする。
 「罪と恥」は西欧人と日本人の文化の違いを論じたもので、罪と恥が民族的対局概念として捉えられている。
 が、「ツチヤの罪と恥」とすると、水と油の罪と恥が合体してツチヤという個人に襲いかかっていくのである。
 罪であり、恥なのである。
 存在自体が罪であり、そのことが恥なのである。
 的確であり過ぎ、これではツチヤがあまりにかわいそうである。
 なら、といってこれを『ツチヤの妻と恥』」にしたらドエライことになる。

 ツチヤとしては、本の題に「ツチヤ」を入れたかったにちがいない。
 が、「罪と罰」でも「罪と恥」でも無理なのである。
 そこで、涙を飲んでツチヤを引っ込め、恥は敬遠して「妻と罰」で突き放した、そんな印象を受けるのである。
 もちろん本当にそうかどうかは知らない。
 なぜ「ツチヤ」という言葉が行方不明になってしまったのか、それを私なりに推理しただけである。
 この文の責任は私にはない。
 「ツチヤ」を入れなかった、ツチヤに責任がある。
 まるで、昨今の中国の論法に似ている。

 でもそういうツチヤの生態を懺悔している一文が「妻と罰」にある。
 タイトルは「死んでも惜しくない人」である。
 まさに、題は人を表すものである。
 ちょっと、抜粋でコピーしてみよう

 世の中にはさまざまな差別がある。
 人種差別、男女差別、能力やルックスや年齢や体重による差別など。
 わたしも年齢や職業を理由に責められてきた。
 「男だったら注射くらいで泣くな」
 「いい年をして、食べ物をボロボロこぼすな」
 「女子大で教えているのだから、おごれ」
 「教師なんだから、駄々をこねないで学校に行きなさい」
 「先生なんだから、チョコマカしないでください」
と言われてきた。

 還暦になって気づいたことだが、60歳以下の人が死ぬと、「まだ若いのにかわいそうだ」「これからというときに惜しい」と言われる。
 それなら、老人が死ぬのはかわいそうでないのか、老人が死んでも惜しくはないのか。
 とくに「なぜ順番通り死んでいかないのか」という嘆き方を聞くと、「なぜお前が身代わりに死なないのか」と非難されているような気になる。
 これでは船が沈没しても、若者をさしおいて生き残ることもできない。
 口では、老人を大切にしようと言われ、電車でも席を譲られることになっているし、長生きしてねと言われているが、心の中では、いつ死んでもいいと思われているのではないか。
 以前、おばあさんが身体を思うように動かせなくなったのを苦にして車の前に飛び込もうとして果たせなかったとき(身体が思うように動かず、飛び込めなかったのだ)、ある老人は、
 「彼女がひかれていたら、ひいた運転手は気の毒だ。若者をひくのと同じ罪に問われるのだから」
と語っていた。
 老人自身、若者の生命の方が貴重だと考えているのだ。

 老人が死んでも惜しくないと考えられるのはなぜか。
 理由はいくつか考えられる。

①.「これから仕事をするときに死ぬのは惜しい」
 しかし、仕事をしない人間は死んでもいいのか。
 一日中日向ぼっこしているネコは生きるに値しないのか。
 わたしは今後、仕事らしい仕事はできないだろうが、若い頃はもっと仕事をしていなかった。
 だが、仕事だけが人生ではない。
 年をとっても、サボルことにかけては、まだ若いものに負けない自信がある。
 わたしは大器晩成型の人間だ。
 なぜそう言えるかというと、この年になっても大成していないからだ。
 本来の力が花開くまでに、あと50年はかかる。

②.「老人は十分生きたではないか。したいことをする時間はあったはずだ。あとは余った時間だ」
 だが、人生には「十分」も、「余った時間」もない。
 人間はただ生きているのだ。
 宇宙の営みに「十分」も「余り」もないのと同じだ。
 それに、わたしはしたいことがまだできていない。
 平和な一週間を過ごしたこともないのだ。

③.「もうすぐ切れる定期よりは、買ったばかりの定期を落としたほうがくやしい」
 たしかに、残り少ないものを失っても悔しさはそれほどでもないが、一概にそうだとも言えない。
 最後の一口に残しておいたトロの刺身を人にとられたときは、くやしいではないか。
 映画でも始まってすぐに打ち切られるよりも、もう少しで終りというところで打ち切られる方がつらいのだ。

 でも、くやしいのはどんな理屈で考えてみても、老人の生命は若者の生命よりも劣るものと思えることだ。



 ツチヤというのはひじょうに芸人のようである。
 ジャズが好きで、チョコレートを食べながらピアノをひき、ラーメンをすすりながら五線譜にオタマジャクシを書き込むらしい。
 そんなこんなで苦労して作曲したものが演奏されるという。

 ジャズがなくなったら、人生は退屈なものになり、無駄な出費は減り、研究時間は増え、苦しみは大幅に減るにちがいない。
 学生時代からジャズの演奏活動を続け、今でもライブ活動を続けている。
 ライブは自作の曲が中心だ。
 「他人の曲が難しくて演奏できないから自分でつくるんだろう」
と言われるかもしれないが、そんな卑しい目的でつくるのではない。
 わたしは自分の曲だってロクに演奏できないのだ。
 わたしの曲は高度なセンスと技術を必要とする曲ばかりである。
 一流のプロでさえ、
 「お前の曲は簡単には演奏できない。もっと----<略>----」
と言うほどだ。
 天は二物を与えずというか、二兎を追うものは一兎をも得ずというか、せっかく曲を作っても、それを活かす演奏技術がわたしには不足している。
 ピアノの構造に問題があるのか、バンドのメンバーに問題があるのか、地球温暖化で音響効果の空気が汚れているせいなのか、不明である。
 
 ジャズは即興演奏だ。
 演奏中、頭を極限まで使う。
 頭に浮かぶフレーズのうち、明らかに弾けないものを瞬時に切り捨て、選択肢を十分の一に絞ると、残りは、
①.もしかしたら弾けるかもしれないフレーズ
②.簡単に弾けるフレーズ
の2種類になる。
 あいにく弾きたいと思うのはたいてい①なのだ。
 果敢に①を選ぶと、十中八九、失敗する。
 まれに弾けることもあるが、「弾けた!」と思うと次の②の簡単なフレーズを弾き損なってしまう。

 わたしの演奏を聴いてロクな曲ではないと思う人ははやまらないでいただきたい。
 演奏が悪いのか曲が悪いのかの判断ができないはずだ。
 もしかしたら、わたしの曲は名曲かもしれないのだ。
 それを知る絶好の機会が訪れた。
 これ以上は望めないという一流プロミュージシャンがわたしの曲を演奏してくれることになったのだ。
 ぜひこれを聴いてからわたしの曲を評価してほしい。
 きっと心ゆさぶられるはずだ。
 万一、感銘をうけなかったら、きっとそれは地球温暖化のせいだと思っていただきたい。
 メンバーは---<略>----という我が国を代表するミュージシャンばかりだ。
 夢のようだ。
 いずれもアマチアから神のように尊敬されている人たちばかりだ。
 この人たちの実力がどれほどすごいか、外見を見ただけでは分からない。
 むしろ外見はみないほうがよい。
 写真で判断せず、演奏を聴いてもらいたい。
 このライブは「ツチケンナイト」という名で開かれる。


 ならばと思って「ツチケンナイト」なるものを検索してみた。
 上記のエッセイはページからいうと2006年の初めのころのようである。
 なかなかちょっと見つけるのが難しい。
 今年3月のライブがありました。

Ginza Music Concierge:Column 2010/03/29
http://www.yamaha.co.jp/yamahaginza/concierge/008/index.html
エリック&ツチケン色に溺れた夜
  ─土屋賢二トーク&ジャズライブ「ツチケンナイト Vol.1」─

哲学者/ジャズピアニスト 土屋賢二、トランペット奏者 エリック・ミヤシロ


● すべてツチケン作曲のバラエティに富んだ刺激的なステージ


● 終始、観客の笑いに包まれるツチケン愛にあふれた空間


● 「経験を積むごとに、音楽性は強くなる」


 では、ツチヤの作曲したその曲とはいかなるものか。
 動画を検索してみた。
 出てきたのがこの画面。


●  「ツチケンナイトに一致する情報は見つかりませんでした。」

 これはどういうことだろう。
 「ツチケンナイト」をざっと検索したところで古いのは2004年というのがある。
 いまから6年も昔のことである。
 ところがこれまでに、1本の動画も載せられていない。
 不思議なことだ。
 理由はいくつか考えられる。

①.あまりの感動でカメラのスイッチを押しそこなった。
②.どう考えても動画になじまない曲ばかりだった。
③.誰もカメラをもってこなかった。

 はたしてどれが正解だろう。


 最後に、ツチヤのもうひとつの特技を。
 ツチヤにはこういうあだ名もある。
 「お茶の水大学のさくらももこ」
 「妻と罰」にはさくらももことの対談が載っている。
 「心強い味方」というタイトルである。

 わたしの理解者がついに現れた。
 さくらももこさんである。
 これほど強い味方がいるだろうか。
 ちびまる子ちゃんがついてくれているようなものだ。
 さくらさんとある店で食事をしたときのことだ。
 さくらさんはわたしの話を聞くと、
 「先生は干物ではない-----と思います。先生をもっと評価すべきです」
と言って憤慨した。
 憤慨しすぎて笑ったほどだ。
 念のため「おかしいですか」とたずねると、「はい」とこたえたから、可笑しがるほど憤慨しすぎたのは間違いない。

 さくらさんがわたしのどこを評価しているのか、疑問に思う向きも多いだろう。
 おそらくルックスか気品あたりかなと思っていると、文章だという。
 なんとさくらさんは、
 「わたしが読んだ文章で感心したのは夏目漱石とツチヤ先生ぐらいだ」
とまで言い切ったのである。
 「だからとにかくみんなが先生を尊敬しないのは間違っている。
 千円札に先生を印刷すべきだ」
と結論づけた。
 完璧な論理だ。

 一応念を押した。
 「尊敬しない世間が間違っているか、さくらさんが間違っているか、どちらかですよね」
と言うと、さくらさんは同意し、世間と食い違ったときはいつも自分の方が間違っていたことを、もっと完璧な論理で説明した。
 このように、人の評価に自信がもてないさくらさんでさえ、わたしを評価しているのだ。
 最後にさくらさんは、
 「先生は大事にされるべきだ」
と繰り返し、
 「村のお地蔵様みたいに」 
と付け加えた。


 ツチヤの特技とはさくらももこをツチヤの信奉者にした、ということではない。
 その画才である。
 実に見事なタッチである。
 いい加減な線画の象徴的モデルのような絵である。
 さくらももこのマンガは、この絵に限りなく似ている。
 さくらももこの絵は、ツチヤの絵を面で展開したもののようにわたしには感じられる。



 この「見つけたら駆除してください」とはどういう意味だろう。
 本のタイトルが「妻と罰」だから、右の人はツチヤの奥さんだろうか?
 スカート(ワンピース)のようにみえるのだが。
 などと不届きなことを考えてはならない、
 これは正真正銘、ツチヤの描く自画像である。
 その証拠に若き日のツチヤを見てみよう。 


 左がツチヤで、右は****さんである。
 ちなみにツチヤはこのときちゃんとズボンをはいている。
 が、モンタージュに信を置くなら駆除していいのは「ツチヤ」ということになる。
 ただ駆除すると、「自殺幇助罪」に問われるので、注意を要するが。

 現在のツチヤ(といっても2005年頃だが)と、結婚10年目のツチヤとの差はなにか。
 そう、髪の毛の薄さにある。
 結婚10年目ころはフサフサとした黒髪だった。
 還暦になると、塗りつぶす必要がなくなり、グルグルとウズを14回描けば十分になる。
 だがである。
 稿頭の写真ではツチヤの頭は黒々とフサフサしている。
 カツラだろうか。
 そうでなかったら、シルバー・バンジー・ジャンパーと同じく、異星人の生まれ変わりだろうか。
 ありうる。
 ツチヤなら何でもありだ。
 そうだとしたら、日本が危ぶない!
 「見つけたら、駆除」したほうがいい。




 [かもめーる]




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