2010年5月24日月曜日

いい加減に学ぶ構造主義 (1)

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 古本屋で何となく買った。
 「構造主義!」
 何回か関連する本を読んだことがあるがマルでサッパリわからなかった。
 「寝ながら学べる構造主義」とあるので、面白くなかったら放り出してしもいいだろうと買ってみた。
 ゴミにしても1ドル50セント。
 まあ、150円というところか。

 若き昔、学生の頃、「世界の名著」でレヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」を読んだことがある。
 結構面白かった。
 どこがというと、未開文明の文化人類学のフィールドワークを綴ったものであったから。
 でもなぜこんな本が「世界の名著」に名を連ねているかというと、構造主義の有名なテキストになったせいである。
 サルトルの、
 実存主義(といっても、これもよくわからないのだが)
を一蹴してしまった本でもあるという。
 その結果、ボーボワールと来日してもてはやされていたサルトルは以後、みるも無残にガラクタ、壊れたオモチャになってしまった。
 ために、「世界の名著」には一時スーパースターであったサルトルの著作はない。
 なんてことはどうでもいい。
 全部うけ売りである。

 寝ながら本を読む習慣は遥か昔にやめてしまった。
 これ、相当に体がつらい。
 あちこちが痛くなる。
 小学生くらいなら体も柔軟だが、それを越えると筋肉がついていかない。
 よって寝ながら本を読むことはやめてしまった。
 「寝ながら学ぶ」ことはちょっと無理になり、それよりできれば起きていて「いい加減に学べる」方がいい。
 よってこの本「いい加減に学べる構造主義」と読み替えて読んでみた。
 このいい加減さでおもしろかったのは2つ。
 一つはロラン・バルトという学者の「記号学」(あるいは記象学)、あとの一つはレヴィ=ストロース。

 まずはロラン・バルトから。
 こっちの都合のいいように解釈すると、つまるところ、インターネット上に発表されたものに、著作権は存在しない、
 「読者が誕生し、作者は死んだ
という説。
 私のサイトは、インターネットから引っ張ってきた内容を抜粋することで成り立っているといっていい。
 老人の意見・能書きなんて偏屈に満ち、理屈ぽく欺瞞に満ちていてつまらないものである。
 それよりいろいろな他人様の解釈の方が遥かにためになって意味がある。
 よって、いかに読者にいろいろな人の考えを面白く読ますか、それがこのサイトの使命。
 まあそんな大仰なものではなく、単なる節制のないデタラメ主義だけのことである。
 で、そのデタラメ主義に一抹の「哲学的サポート?」らしい考えを述べているのがこの人で、言い換えれば、言い訳の根拠になりそうなのが、この学者の説というわけ。

 この本の著者(内田さん)はインターネットの著作権など何処吹く風のようなので、それにつけこんで、この本から抜粋して、ロラン・バルトの説をお送りしようと思う。
 興味があったら、本を買ってみてください。
 そうすれば著者に印税が入り、このサイトはその宣伝をしたことで著作権侵害で訴えられることもないでしょうから。
 私の方は、タイプの腕が疲れて、サロンパス代を持ち出すことになるが。
 今日はそれようにちゃんと30枚買ってきた。



 ちなみに10枚入りで2ドル95セントである。
 3箱買ってきた、8ドル85セント。




 日常的な経験からも分かるとおり、私たちは決して確固とした定見をもった人間としてテクストを読み進んでいるわけではない。
 そもそもテクストが生成するプロセスには、
 「起源=初期条件」
というものは存在しないとバルトは言う。
 そのことを言うために、バルトは「作品」という言葉を避けて、「テクスト」という言葉を選びました。
 「テクスト」(texte)とは「織り上げられたもの」(tissue)のことです。

 バルトのこのテクスト理論は、「作者」という近代的な概念そのものが「耐用年数」を超えてしまったことを教えてくれている。
 最近、インターネット上でのテクストや音楽や図像の著作権についていろいろな議論が展開されていますが、バルトはいまから30年前に、すでに「コピー・ライト」というものを原理的に否定する立場を明らかにしていたのです。

  作品の起源に「作者」がいて、その人には何か「言いたいこと」があって、それが物語りや映像やタブローや音楽を「媒介」にして、読者や鑑賞者に「伝達」される、という単線的な図式そのものをバルトは否定しました。
 「コピーライト」あるいは「オーサーシップ」という概念は、その文化的生産物が「単一の生産者」を持つ、という前提で成り立ちます。
 「作者」とは、その何かを「ゼロから」創造した人のことです。
 聖書的な伝統に涵養されたヨーロッパ文化において、それは「造物主」を模した概念です。
 誰かが「無からの創造」を成し遂げた。
 そうであるなら、創造されたものはまるごと造物主の「所有物」である。
 そう考えるのは、ごく自然なことです。

 近代までの批評はこのような神学的信憑の上に成立していました。
 つまり、作者は作品を「無から創造した」造物主である、と。
 ならば、批評家は必ずやこの「神=作者」に向かって、こう問いかけることになります。

 あなたはいったい、この作品を通じて、何を意味し、何を表現し、何を伝達したかったのですか?

 これが近代批評の基本的なスタイルを作りあげます。
 批評家たちは「行間」を読んで作者の「底意」を探ることに熱中しました。

 しかし、いろいろ調べてみると、作者たちは必ずしも
 「自分が何を書いているのか」
を、はっきり理解していたわけではなかったのです。
 村上龍はあるインタビューで、
 「この小説で、あなたは何がいいたかったのですか」
と質問されて、
 「それを言えるくらいなら、小説なんか書きません」
と苦い顔で答えていましたが、これは村上龍の言うとおり。
 答えたくても答えられないのです。
 その答えは作家自身も知らないのです。

 私たちはインターネット・テクストを読むとき、それが
 「もともと誰が発信したものか」
ということに、ほとんど興味をもちません。
 それはインターンネット上でコピー&ペーストされ、リンクされているあいだに変容と増殖を遂げており、もはや、
 「もともと誰が?」
という問いはほとんど無意味になっています。
 問題は、それを私が読むか読まないか、読んだあと自分のサイトにペーストしたり、発信元にリンクを張ったりするか、という読み手の判断に委ねられています。
 これはバルトの言う「作者の死」とかなり近い考え方です。


 テクストはさまざまな文化的出自を持つ多様なエクリチュールによって構成されている。
 そのエクリチュールたちは対話をかわし、模倣しあい、いがみ合う。
 しかし、この多様性が「収斂する場」がある。
 その場とは、これまで信じられたように作者ではない。
 読者である。<略>
 テクストの統一性はその起源にではなく、その宛先のうちにある。<略>
 読者の誕生は作者の死によってあがなわれる。
 (バルト「作者の死」)


この一説はほとんどそのままインターネット・テクストに当てはめることができます。
古典的な意味でのコピーライトは、インターネット・テクストについてはほとんど無意味になりつつあります。
 むしろ自分の作品が繰り返しコピーされ、享受されることを「誇り」に思うべきであり、それ以上の金銭的なリターンを望むべきではない、という「新しい発想」に私たちは次第に馴染みつつあります。

 その先鞭をつけたのが「リナックス・OS」です。
 このOSを発明したリナスさんは、これで天文学的な利益を手に入れることができたのに、それをせずにインターネットに載せて、無料で公開してしまった。
 すぐれたOSが無数の人々の協力によって進歩することのほうが、自分ひとりが大富豪になることよりずっと大事なことだ、とリナスさんは考えたのです。
 作家やアーテイストたちが、コピーライトを行使して得られる金銭的リターンよりも、自分のアイデアや創意工夫や知見が全世界の人々に共有され享受されているという事実のうちに深い満足感を見出すようになる、という作品のあり方が生まれているのです。
 それはテクストの生成の運動のうちに、名声でも利益でも権力でもなく、「愉快さ」を求めたバルトの姿勢を受け継ぐ考え方のように思われる。


 インターネットをのぞくと、許可なく写真文章の転載を禁じます、という能書きのあるサイトに時たま出会うことがある。
 転載を禁ずるなら、
 「インターネットなどに載せるな!
と思うのだが。
 インターネットというのは「コピー転載」という「先進情報技術」をベースに、親亀から子亀、そして孫亀へと無限の情報を引き出せるという概念の基に作られているオープン・メデイアである。
 「製作者が個人」であるという特殊事情から、すべてが「オープン化される」という特性を担ったメデイアである。
 たいたいこういう禁止が項目があるサイトの内容のものはどんなものか読んでみると、ただぐだぐだあるだけで実につまらないものばかりである。
 一般説では書き込み、すなわちサイトの99%はゴミという。
 こちらはさらにひどく
 「100%パーフェクトにゴミ!!!」、
いらんよこんなもの、その程度のもの。
 こういう禁止項目が目についたら、そのサイトは読まずに飛ばしてくださって十分。
 ウザイだけで全く無価値のものばかり。
 つまり、「内容に自信がない」から禁止条項をいれ、もったいぶって表面だけはあたかも「知的に見せかけ」ているだけ。
 が、腹の底ではコピーしてほしいな!、ほしいな!という欲望がミエミエに表れていて、ちょっとどころかひじょうにケガラワシイもの。
 99%のゴミが、100%のゴミを揶揄ってもしかたがないのだが。

 反対に、「転載自由ですが、責任は負いません」というサイトの方が充実している。
 作者から、
 「どんどんコピーしてくれ、コピーされたってどういうこともない、それだけの自信があるものを書いているのだ!」
 という覇気が伝わってくる。
 よって清潔感に満ち満ちている。
 もしかしたら残りの1%かもしれないし、99%のゴミにも磨けば光る原石が埋もれいるかもしてない。
 内容がいいものなら自然に転載が行われる。
 コピーの連鎖が動き始めると、原石が磨かれ、光る石に変わっていく。
 そこでは最初の著者、すなわち作者は自然とその影が薄くなりそのうち見えなくなっていく。
 見えなくなった分、たくさんの読者が誕生する。
 そして、作者は死ぬ
 コピー・ペーストされないくだらない作品にのみ、作者が居残っていく。

 コピー禁止」ということは、はじめから自ら「ゴミです!と宣言」していることになる。



  <つづく>


[註:抜粋]

 「エクリチュールとは、書き手がおのれの語法の"自然"を位置づけるべき社会的な場を選び取ること」とバルトは書いている。
 つまり「ことばづかい」が「エクリチュール」である。
 エクリチュールとはステイル(文体)とは違います。
 文体とはあくまで個人的好みですが、エクリチュールは集団的に選択され、実践されている「好み」です。

(wikipedia:エクリチュールとはフランス語:écriture、文字・書かれたもの、書法、書く行為、の意)


[註: Wikipediaより]

 ロラン・バルト(Roland Barthes, 1915年11月12日 - 1980年3月26日)
 フランスの批評家。
 高等研究実習院(École pratique des hautes études)教授、コレージュ・ド・フランス教授。
 シェルブールに生まれ、バイヨンヌに育つ。
  歴史家にとどまらないミシュレの活動に着目した『ミシュレ』、「作者の死」の一編を収めた『物語の構造分析』、フランスのさまざまな文化・慣習を分析した 『神話作用』、衣服などの流行を論じた『モードの体系』、バルザックの中編を過剰に詳細に分析した『S/Z』、自伝の形をとりながら自伝ではない『彼自身 によるロラン・バルト』、写真を「プンクトゥム」という概念などで論じた遺作『明るい部屋』など、その活動は幅広い。





 [かもめーる]



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