2010年5月24日月曜日

いい加減に学ぶ構造主義 (3)

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● 世界の名著:レヴィ=ストロース


 レヴィ=ストロースを続けましょう。


 まず、「音韻論とは」という問からはじめなければなりません。
 これがわからないと、レヴィ=ストロースの構造人類学の驚嘆すべきアイデイアに触れることができないのです。
 音韻論は、音素論とも呼ばれます。
 「言語として発っせられた音声は、そのラングの中で、どのようにして他の言語音と識別されるか」
という、言語音の差別化のメカニズムを研究する学問です。

 例えば、よく知られているように日本語では[r]と[l]の音は区別しないで使われます。
 どちらを使っても「ラーメン」を頼めばラーメンが出てきます。
 しかし英語(とくに米語)ではこの2つは示差的に使われます。
 「ライス」を頼むと「シラミ」を食べさせられる可能性は払拭しきれません。
 日本人だって、[r]と[l]が物理音として、異なる音であることは何度も聴かされれば判ります。
 が、日本語ではこれを「区別しない」という「約束」になっています。
 よって、その違いを聴きとり、記憶し、再生することは日本語の話し手には少なからぬ困難を覚えます。

 フランス語には口腔音が12、鼻母音が4つあります。
 ところが、この母音のうちいくつかは最近の若いフランス人はもう聴き分けも再生もできなくなっています。
 すでにいくつかの母音は「消滅」してしまいました。
 母音の聴き分けが「めんどうくさい」と言い出す人がふえれば、その「取り決め」はあっさり改訂されてしまうのです。

 日本語の「鼻濁音」もそうです。
 『夜霧よ今夜もありがとう』で石原裕次郎はきれいな鼻濁音で「ぎ」の音を発声しています。
 でも、カラオケで歌っている若い人たちのほとんどはこの音を出すことができません。
 同じ言語集団でも時代によって、聴きとり、発声できる音は変化するわけです。


 ということは、日本語のアイウエオの「わ行」と「や行」の一部もそうやって消えてしまったということになる。

  ヤイユエヨ: や・yi・ゆ・ye・よ
  ワイウエヲ: わ・wi・wu・we・wo

(註:オ[=o]とヲ[=wo]に発音の違いはない。「~わ」を「~は」と書くと同じである)
 
 最近は「橋」と「箸」の差も僅かになっているようだ。
 先般、若い人と歩いていて「この橋の向こうです」といわれたとき、「この箸の向こうです」と聞こえ、一瞬この人は何を言っているのだろうと顔を見てしまったことがある。
 英語は音の強弱だが、日本がは高低で発音する、と言われている。
 この高低があいまいになっているということであろう。


 音の連続体から恣意的に切り取られて、集合的に同意に基づいて「同音」とみなされている言語音の単位を「音素」と呼びます。
 言語音は発声器官によって発振する空気振動という「アナログ」なものですから、このかたまりに「分節線」を入れるやり方は理論上無限にあります。
 事実、生後まもない赤ん坊は成人には発し得ないような非分節的な音声をいくらでも発音できます。
 しかし、世界中の言語の比較と、子どもの言語習得プロセスの研究から言語学者は意外な事実を学び知りました。
 それは、人間が言語音として使用している音素のカタログは想像しているよりはるかにこぢんまりしたののだということです。
 ある言語音について、それが「母音か子音か」、「鼻音か非鼻音か」、「集約か拡散か」、「急激か連続か」‥‥など12種類の音響的、発声的な問いを重ねると、世界中のすべての言語に含まれる音素はカタログ化できるのです。

 レヴィ=ストロースは二項対立の組み合わせを重ねてゆくことによって無数の「異なった状態」を表現できるというこの音韻論発想法を人間社会のすべての制度に当てはめてみることはできないのかと考え、集中的な検討を加え、見事な成功を収めました。
 それが、「親族制度の分析」です。


 やっとこさ、核心部分にたどりつきました。
 長くなりすぎました。
 あとはサラッツといきましょう、サラッツと。


 レヴィ=ストロースは様々な社会集団における家族のあいだの「親密さ/疎遠さ」の関係を調べた結果、不思議な法則を発見しました。
 それはあらゆる家族集団は、次の2つの関係において、必ずどちらかの選択肢を選ぶ、という事実です。

①.「父-子/伯叔父」
 (0)..父と息子は親密だが、甥と母方のおじさんは疎遠である。
 (1)..甥と母方のおじさんは親密だが、父と息子は疎遠である。

②.「夫-婦/兄弟-姉妹」
 (0)..夫と妻は親密だが、妻とその兄弟は疎遠である。
 (1)..妻はその兄弟と親密だが、夫婦は疎遠である。

 この構造は4つの項(兄弟、姉妹、父親、息子)から成っています。
 レヴィ=ストロースはこれを「親族の基本構造」と名づけました。
 親族の基本構造は2つの二項対立から成ります。
 つまり、どの世代をとっても、そこにはプラスとマイナスの関係が対になって存在している、ということです。
 ではいったいなぜ、世界中のすべての社会集団にこの構造があるのでしょうか。

 「
 この構造は考えうる限り、存在しうる限りの最も単純な親族構造である。
 まさしくこれが親族の基本単位なのである。
 親族構造が存在するためには、人間社会にはつねに存在する3種類の家族関係がそこに含まれていなければならない。
 1.共通の父を持つ関係(兄弟姉妹)
 2.婚姻関係(夫婦)
 3.生んだものと生まれたものとの関係(親子)
 」  レヴィ=ストロース『構造人類学』


 あたりまえのことを当たり前ですませずに、論理的にするのが学問だからこうなってしまう。
 なかなかサラッツととはいかない。


 私たちが内発的だと信じている感情(親子、夫婦、兄弟姉妹の間の親しみ感情)とは、実は、社会システム上での
 「役割演技
にすぎないのである。
 社会システムの違うところでは、親族間に育つべき標準的は感情が違う、ということです。
 夫婦は決して人前で親しさを示さないことや、父子は口をきかないのが「正しい」親族関係の表現であるとされている社会集団が現に存在するのです。


 そういえば、人が死んだとき日本人は涙をみせずに葬送するが、韓国人は一日中涙を流し続けないとけない、というルールがある。
 これは宗教にもからんでくる。
 日本人は仏教徒だからあの世があり、「この世を去るもの」に涙を見せることは死者を未練がましくこの世に引き止めることになるので慎まないといけないとされている。
 つまりうまく「往生」させてやらねばならない、ということである。
 韓国では詳しくは知らないが記憶によれば、あの世がないため霊となって漂うことになり、目一杯浮かべて悲しまないと死後の霊に悪さをさせられる、と聞いたことがある。
 仏教では死ぬと「無になる」。
 だから、三代経ると先祖は忘れ去られてしまう。
 時には無縁仏になってしまう。
 生きているものにとって今が最も大事なものになり、「遠い親戚より、近くの他人」になる。
 韓国では死ぬと「有になる」。
 肉体をもたないこの世の人、それが「有」である。
 とすると身近にいる存在となり、祀ってやらねばならなくなる。
 すこぶる血のつながりの強い社会になる。


 私たちは常識的には、人間が社会構造を作り上げてきた、と考えている。
 親子兄弟夫婦のあいだには「自然な感情」がまずあって、それに基づいて親族制度を作り上げてきたのだと思っている。
 が、レヴィ=ストロースはそのような「人間中心の発想」をキッパリと退けます。
 「人間が社会構造を作り出すのではない、社会構造が人間を作り出すのである」と。
 社会構造は、わたしたちの人間的感情や人間的論理に先立って、すでにそこにあるものであり、それが私たちの感情の形や論理の文法を事後的に構成しているのです。
 ですから、私たちが生得的な「自然さ」や「合理性」に基づいて、社会構造の起源や意味を探っても、決して
 そこに辿り着くことはできない
と、いうわけである。


 さて、いよいよ核心。


 社会集団がいまあるような親族システムを「なぜ選択したのか」、その個別的理由はわかりませんが、親族システム「というもの」が存在する理由はわかっています。

 「親族構造は端的に<近親相姦を禁止するため>に存在するのです

 では、なぜ人間たちは近親相姦を禁止するのか。
 この問にレヴィ=ストロースは、驚くべき回答を提出します。
 近親相姦が禁止されるのは、

  「女のコミュニケーションを推進するため」、であると。

 これが、レヴィ=ストロースの答えなのです。


 「女のコミュニケーション?」
 そりゃナンダ?


 レヴィ=ストロースによれば、人間は3つの水準でコミュニケーションを展開します。

 ①.財貨・サービスの交換(経済活動)
 ②.メッセージの交換(言語活動)
 ③.女の交換(親族制度)

 「
 近親相姦の禁止とは、言い換えれば、人間社会において、男は、
 「別の男から、その娘またはその姉妹を譲り受ける」
という形でしか、女を手に入れることができない、ということである。
 」  レヴィ=ストロース『構造人類学』

 <男は、別の男から、その娘またはその姉妹を譲り受けるという形でしか、女を手に入れることができない>
 これが、レヴィ=ストロースの「大発見」なのです。


 つまり、「女」を別の異なる社会集団に押し出すために己が集団に課した規制、それが「近親相姦の禁止」なのである。
 ということは、親族関係は親族の緊密な感情に基づいて作られていてはならない、ということである。
 己が集団は他の集団からまるで意識の違う女を受け容れ、これによって社会循環が行われる。
 すなわち常に「不緊密な感情」が流入されていなければならない。
 これが「女のコミュニケーション」ということである。


 親族関係は親族の緊密な感情に基づいて自然発生的に出来上がったものではありません。
 親族関係には「ただ一つの存在理由」しかありません。
 それは「存在し続ける」ことです。
 「親族が存在するのは、親族が存在し続けるため」なのです。


 何だか、論理が堂々巡りしているような気分になってくるのですが。
 「
 親族システムにおいて、「ある世代」において女を譲渡した男と、女を受け取った男の間に生じた最初の不均衡は、「続く世代」において果たされる『反対給付』によってしか、その不均衡を回復するすではないのである。
 」 レヴィ=ストロース『構造人類学』


 キーワードは「反対給付」です。
 何か「贈り物」を受け取った者は、心理的な負債感を持ち、「お返し」をしないと気が住まない、という人間に固有の「気分」に動機付けられた行為を指しています。

 「贈与」は人類学の重要な主題の一つです。
 贈与された者は返礼することによって一旦は不均衡を解消します。
 今度はその返礼を受けた者がそれを負い目に感じることになり、その負債感は、返礼に対してさらに返礼するまで癒されません。
 ですから、ある贈与が行われると、その後、返礼の往還が論理的には無限に続くことになります。
 どうして、このような贈与システムがあるのか、その起源を知ることは不可能です。

 が、それがどういう社会的「効果」を持つかはすぐにわかります。
 効果の第一は、贈与と返礼の往還のせいで、社会は同一状態にとどまることができない、ということです。
 効果の第二は、「人間は自分が欲しいものは、他人から与えられるという仕方でしか手に入れることはできない」という心理を、人間に繰り返し刷り込むことです。

 社会関係は振り子が振れるように、絶えず往還しており、人間の作り出すすべての社会システムは、それが
 「同一状態にとどまらないように構造化されている
ということです。
 どうしてそうなるか、理由はわかりません。
 おそらく人間社会は同一状態にとどまっていると、滅びてしまうのでしょう。
 存在するためには、絶えず「変化」することが必要になってきます。
 親族の存在理由は「存在し続けること」だと書きました。
 それは同時に「変化し続けること」でもあります。
 ここでいう変化とは、進歩とか刷新を意味しているわけではありません。
 レヴィ=ストロースは、社会システムは「変化」を必須としているが、それは別に「絶えず新しい状態を作り出す」ことだけを意味しているのではなく、単にいくつかの状態が「ぐるぐる循環する」だけでも十分に「変化」と言える、と考えました。


 つまりだ、「自分探し」などやっても何の益にもならんということだ。
 自分なんてものは存在しないということだ。
 変化し続ける社会にあって、変化しない自分などというものはありえないということだ。
 変化している自分を、変化過程にある自分が探し当てるなんてことは、論理的に考えられないことだということである。
 己が本質よりも、構造の中のどこに己をフィットさせるのが最も適宜か、ということのようである。
 それを見極めることが、いわゆる「自分探し」だということのようである。
 始めに「自分ありき」なんてことは、天地がひっくり返ったって「ない」ということ。

 「はじめに、まわり在りき」ということだ。


 先に述べたどのコミュニケーションも、最初に誰かが贈与を行い、それによって「与えたもの」が何かを失い、「受けとったもの」がそれに対する反対給付の責務を負う、という形で構造化されています。
 絶えず「不均衡を再生産するシステム」、価値あるとされるものが、決して一つのところにとどまらず、絶えず往還し、流通するシステムです。
 しかし、この説明だけでは人間的コミュニケーションの定義としては足りないのです。
 というのは、婚姻規則に典型的に見られるように、反対給付は、二者の間でピンポンのように行き来するのではありません。
 絶えず「ズレてゆく」のです。
 ある男Aが別の男Bから「その娘」を妻として贈られた場合、そのAは「自分の娘」をBに返礼として贈るのではありません。
 別の男Cに送るのです。
 これが社会的な変化を生み出していくのです。
 「
 パートナーたちは、自分が贈った相手からは返礼は受け取らず、自分が贈られた相手には返礼しない。
 あるパートナーに贈り、別のパートナーから受け取るのである。
 これは相互性のサイクルであるが、一つの方向へ流れている。
 」  レヴィ=ストロース『構造人類学』


 さて、いよいよ結末。


 社会集団ごとに「感情」や「価値感」は驚くほど多様であるが、それらが社会の中で機能している仕方は「ただ一つ」しかない。 
 人間が他者と共生していくためには、時代と場所を問わず、あらゆる集団に妥当するルールがあります。
 それは、
①.「人間社会は同じ状態にあり続けることはできない
②.「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない
 という、2つのルールです。

 これはよく考えると不思議なルールです。
 私たちは人間の本性は「同一の状態にとどまること」だと思っていますし、ものを手に入れる一番合理的な方法は、「自分で独占して、誰にも与えない」ことだと思っています。
 ところが、人間社会はそういう静止的、排他的なスタイルを許容しないようです。
 これが、これまでに存在してきたすべての社会集団に共通する暗黙のルールなのです。
 「変化すること」、このルールを守らなかった集団はおそらく「歴史」が書かれるよりはるか以前に滅亡してしまったのでしょう。

 それにしても、いったいどうやって私たちの祖先は、おそらく無意識のうちに、この「暗黙ルール」に則って、親族制度や言語や神話を構築したのでしょう。
 私にはうまく想像できません。
 しかし、事実はそうなのです。
 ですから、もし「人間の定義」があるとするなら、それは
 「このルールを受け容れた者
というほかないでしょう。




[註]
 引用は適宜の判断で抜粋、変更していますので、正しくは上記の著作を読んでください。


[◇]
 なんでこの歳になって、こういうことを長々とやっているのだろう?
 社会の仕組みが判ろうと判るまいと、まるで悩まずに十分楽しく過ごしていける年齢なのだが。
 老人がこういう能書きを言うのも、社会構造に刷り込まれたシステムなのかもしれない。
 その刷り込まれたシステムを「老人のグチ」というのかもしれない。




 [かもめーる]



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