2010年5月24日月曜日

いい加減に学ぶ構造主義 (2)

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● クロード・レヴィ=ストロース (wikipediaより)
 名前: クロード・レヴィ=ストロース
 生年月日: 1908年11月28日
 没年月日: 2009年10月30日(満100歳没)
 学派: フランス社会学派、構造主義
 研究分野: 社会人類学、民族学、アメリカ先住民、親族関係、神話



 では、構造主義とは何か。

 wikipediaをみてみる。

 構造主義(こうぞうしゅぎ)とは、あらゆる現象に対して、その現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論を指す言葉である。

 研究対象の構造を抽出する作業を行うためには、その構造を構成する要素を探り出さなければならない。
 構造とはその要素間の関係性を示すものである。
 それは構造を理解するために必要十分な要素であり、構造の変化を探るためには構造の変化に伴って変化してしまうような要素であってはならない。
 一般的には、研究対象を構成要素に分解して、その要素間の関係を整理統合することでその対象を理解しようとする点に特徴がある。
 例えば、言語を研究する際、構造主義では特定の言語、例えば日本語だけに注目するのではなく、英語、フランス語など他言語との共通点を探り出していくメタ的なアプローチをとり、さらに、数学、社会学、心理学、人類学など他の対象との構造の共通性、非共通性などを論じる。

 ウーン、なるほどそうか。
 さっぱりわからん。

 知恵蔵2010の解説をみてみる。

 戦後主にフランスで展開された20世紀を代表する思想の1つ。
 文化人類学者のレヴィ=ストロースを創始者とする。
 社会と文化の根底にあり、それを営む当人たちにも明確に自覚されていない構造を取り出す分析方法が構造主義である。
 レヴィ=ストロースは、近親相姦の禁止の背後には、女性の交換という構造が存在していることを明らかにした。
 女性は近親の男性と結婚することが許されず、他のグループの男性と結婚しなくてはならない。
 このことによって、グループ相互の女性の交換を通じたコミュニケーションが成立し、社会的なつながりが維持されるのである。
 こうしたレヴィ=ストロースの分析は、私たちの自覚的な意識や主体性に、いわば、無意識の秩序が先行していることを示している。
 またレヴィ=ストロースは、『野生の思考』(1962年)で、それまで未開とされていた文化のなかにも緻密で秩序立った思考が存在することを示す。
 この意味で、彼の仕事はヨーロッパ文化の絶対性(ヨーロッパ中心主義)を批判する文化相対主義にも大きな影響を与えた。
 ただし、レヴィ=ストロース自身は、近親相姦の禁止のように、どのような文化にも共通する構造が存在することを認めており、たんなる相対主義者ではなく、普遍的な人間性を探求する意思をもっている。

 ウーン、そうだったのか。
 まるでわからん。

 では、「いい加減に学べる構造主義」の著者の解説から。

 構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことである。
 私たちはいつも間違いなくある時代、ある地域、ある社会集団に属している。
 この厳然たる事実が私たちの見方、感じ方、考え方の基本を決定している。
 つまり、私たちは自分が思っているほど自由に、あるいは主体的に物を見、考えているわけではない。
 むしろほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられて」いるのである。
 そして、自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまっているものは、そもそも私たちの視野にすら入ることがない。
 それゆえ、その排除されてしまったものは私たちの感受性に触れることもありえず、私たちの思索の主題になることもないのである。
 私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているが、実は、その自由や自律性はすこぶる限定的なものなのである。
 この事実を徹底的に掘り下げたことが、構造主義という方法の功績なのです。

 なるほど、少しは解った。

  つまりなんだな、親は私を生んだわけだから私は親を超えられないし、学校で言葉や物事を習いそれで物を考えているから、学校を超えられないし、社会集団の 一つである会社からサラリーを貰って暮らしていたから社会集団を超えられないし、一票の選挙権を行使しているから国家を超えられないというわけである。
 水に住むサカナは、水を超えられない、つまり水の外から自分を見ることはできないということである。
 同じように社会集団の中で生まれ、そして育った人間は、絶対にその社会から超えられないということである。
 考えること行動すること、それらのすべてが周囲から与えられたものであって、自分のものなどこれっぽちもないということである。
 一人の人間なんて環境あるいは時代の構造からみると塵あくたみたいなものだ。
 できることは、その構造の何処に自分がいて、まあそこそこ楽しくやっていけるかを見極めることが最善だということなのかも知れない。
 ということはあの衝撃的なテーゼ「我思う、ゆえに我あり」というのは間違いで、
 「我思う我あり、ゆえにはじめに社会ありき
ということになるようである。
 とすると昨今はやりの若者たちの「自分探し」というのは、絶対に答えのないものを求めての彷徨ということになる。
 そういう彷徨を許容できるような社会の中でその若者は育ってきたということだろう。
 逆に言うと、若者にそういうムダを強いるのも社会の仕組みだということになる。

 構造(ストラクチャー)というのはハードを指す。
 枠組み(フレーム)といってもいいだろう。
 その枠組みに沿っての人の営みの集合をシステムという。
 つまり体系である。
 そのハードとしての構造枠組みと、ソフトとしてのシステム体系をあわせたものが「仕組み」であり、人はさまざまな仕組みの中でその位置をとって生きている。
 この仕組みからは出られないし、出たと思っていてもそう思うこと自体が仕組みが与えてくれた思考だということである。


 ある領域についての概念や語彙が豊富であるということは、その集団がその領域に対して深く強い関心を持っている、ということである。
 「文明人」と「未開人」はその関心の持ち方が違うのであって、「文明人」が見るように世界を見ていないというのは、別に「未開人」が知的に劣等であるということを意味しているわけではない。
 「どちらにおいても世界は思考の対象、少なくともさまざまな欲求を満たす手段
に他ならない。

 レヴィ=ストロースはこの前提から出発します。
 「あらゆる文明はおのれの思考の客観性指向を過大に評価する傾向を持つ
ことを厳にいさめます。
 つまり、私たち全員が、自分の見ている世界だけが、「客観的にしてリアルな世界」であり、他人のみている世界は「主観的に歪められた世界」であると思いこみ、見下しているのです。
 自分が「文明人」であり、世界の成り立ちについて「客観的」な視点にいると思いこむ人間ほど、この誤りを犯しがちなのです。
 
 サルトルは「歴史」を究極の審級とみなします。
 それは未開から文明へ、停滞から革命へと進む、単線的な歴史プロセスの上で、すべての人間的営みの「正否」を判定するということです。
 レヴィ=ストロースによれば、サルトルが「歴史」という「物差し」を当てがって、
 「歴史的に正しい決断をする人間」と
 「歴史的に誤りを犯す人間」
を峻別しているのは、「メラネシアの野蛮人」が、彼ら独自の「物差し」を使って、「自分たち」と「よそもの」を区別しているのと、本質的にまったく同じ振る舞いだと評価するのです。
 そして、レヴィ=ストロースはこう断定します。

 サルトルの哲学のうちには野生の思考のこれらのあらゆる特徴が見出される。
 それゆえに、サルトルには野生の思考を査定する資格はないと私たちには思われる。
 逆に、民族学者にとっては、サルトルの哲学とは「第一級の民族誌的資料」である。
 私たちの時代の神話がどんなものであったのかを知りたければ、サルトルを研究することが不可欠であるだろう。

 この批判は戦後のあらゆる論争を勝ち続けてきた「常勝」のサルトルを一刀両断にしました。
 こうして実存主義の時代は、いかにも唐突に終わったのでした。


 ということは「歴史とは何か?」という解釈問題と同じになるわけである。
 我々は小さい頃から、古代・中世・近代・現代と「進歩の過程」として習ってきた。
 古代は大半の人間が奴隷であった。
 中世は大半の人間が農奴であった。
 今は民主主義の世で、誰でもが政治への一票を行使できるようになったと。
 サルトルは歴史の行き着くところは「こうなるはずだ」と思い描いて、そこから「今」を見た。
 が、レヴィ=ストロースは、「歴史」というのはある社会がおのれのふるまいの都合のいいように過去を解釈したものであって、端的に言えばその社会特有の「偏見的過去解釈」であり、もともとはそこには本来、進歩も成長もないものなのだ、ということのようである。

 つまり、
 「歴史とはその社会の思考の対象、少なくともさまざまな欲求を満たす手段
にほかならないというわけです。

 もういちど、つまり、
 「歴史的客観性」というものはありえない、というわけである。

 これは困った、どうも我々は時の経過の中で迷子になってしまったらしい。








 [かもめーる]



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