2011年1月4日火曜日

メザシ、ときどきシシャモ

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● メザシ


 この「メザシを食らいてお正月」とは?
 なんでお正月にメザシを食うのか、ということだが。
 「オカシラ付き」でめでたい、などという落語的発想ではない。
 なら、メザシの代わりにタマゴを抱えているシシャモの方が子孫繁栄ではるかにめでたくなる。
 日本食品店には生のサンマも売っている。
 あれは「太刀魚」だから、メザシよりもいな勢でめでたい。
 大きさならホッケもあるが、これはヒモノキなのでメデタイには使えない。
  
 ここ十年余、正月は一人暮らしである。
 よって、お正月料理というのは長い間食べたことがない。
 たとえば今年の元旦の昼はソーメン。
 二日は昨年のご飯の残りを冷凍庫から引っ張り出してきて雑炊。
 三日は買い置きの切り餅を焼いてノリを巻いて3つほど食べた。
 おかずはレタスとパック袋味噌汁だけ。
 夜は主食抜きで卵、納豆、豆腐といった二、三のおかずだけ。
 一日一食半。
 こんな程度で、なにしろしごく簡単。
 普段の生活とまるで変ることはない。
 言い換えると正月はないといっていい。
 ニューイヤーという年の切り替えがあるだけ。
 生活に特別な色合いがあるわけではない。
 ただちょっと、日付で「お正月だな!」と感じるだけ。
 「あけましておめでとうございます」と言葉で気どってみるだけ。

 コヒーを日に数杯飲む。
 もちろんインスタント。
 「MOCCONA」か「NESCAFE GOLD」
 値段は同じ。
 砂糖は入れない。
 牛乳を入れる。
 いわゆるミルクコーヒー。
 牛乳のまろやかな味が、コヒーの苦味とマッチして心地よい。
 が、である。
 年をとってくると人は甘党化してくる。
 甘いものを求め始める。
 チョコレートが食べられるようになったのも老化現象の一つであると思っている。
 コヒーの苦味が言葉通り苦痛の味になってくるのだ。
 だんだん、味覚にあわなくなってくる。
 ちょっと甘ったるい感触を求めるようになる。
 そこで牛乳の量がだんだん多くなってくる。
 1/5が牛乳、1/4が牛乳と増えていく。
 これがいけない。

 牛乳はカルシュウム十分で栄養のいいものである。
 が、問題がある。
 牛乳は身体に摂取されないのだ。
 このことは広く認識されているので承知されている方も多いと思うが、牛乳の栄養分を取り込める民族は北欧系の数少ない人達だけで、あとは全部ダメだと言われている。
 つまり「牛乳の栄養分」と「人間の牛乳栄養分摂取能力」とは別ものだということである。
 牛乳の栄養とは「使えない栄養」なのだ。
 牛乳をいくら飲んでも人間にとって、さほどの栄養にはならないということである。
 まあ、それはいい。
 牛乳とはお茶みたいなものだと思えば済むことである。
 牛からとったお茶だと思えばいい。
 お茶をたくさん飲んだからといって、栄養がつくわけではないから。
 
 ところが牛乳には問題がある。
 骨を溶かす能力があるのだ。
 これも広く知られている事実。
 若いときはこれがうまく作用する。
 骨の新陳代謝を促し、骨の形成に役立つのだ。
 が、その能力の衰えていく20歳以降はヤバクなる。
 溶ける一方で、骨がうまく生成されなくなる。
 よって40歳を過ぎたら牛乳は飲まないほうがいい。
 60歳になったら絶対に牛乳を口にしてはならない。

 が、そうもいかないのだ。
 コヒーが好きなため、老齢年金世代になるのに、ドバドバと牛乳を入れるのだ。
 簡単にいうと、コヒーを飲んで自らの老体の骨を溶かしているのだ。
 見通し真っ暗なのだ。
 もちろん、年金をもらえるほどに生きてきたので、もう人生十分楽しんだし、生きることに執着などないのだが。
 でも、生きているから生きていないといけない
 これお天道様の決めることだが、結構、めんどう。
 生きているから、生きるように生きていないといけない
 死ぬように生きているわけにもいかない。
 骨を溶かしながら生きているというのは、ちょっとトラブル。
 対策は簡単。
 コヒーをやめればいい。
 お酒をやめればいい、と言われればすぐに止められる。
 コヒーをやめればいい、と言われればすぐに止められる。
 でも「骨を溶かしながら生きる」とはどんなものか経験してみてもいい。
 どうせ人生一回しかない、いつ往ってもいい、ならその経験をしてみた。
 スパー安全思考で何もやらないのもいいが、ささやかな冒険も楽しい。
 というツチヤ風もどきの屁理屈をつけて、悪いと分かっていながらコヒーに牛乳をたっぷりいれて飲んでいるワケなのだ。
 まだ、メザシが出てこない。

 50代までは肉が好きだった。
 とくにビーフが。
 食事にいくとわたしだけビーフステーキ。
 日本の牛肉は霜降りの「しつこい肉」であり、2晩食ったらもういらないというシロモノ。
 が、オージービーフはさっぱり肉で毎日食べられる、非常に健康的なお肉。
 ところが、60になった途端、毎日のように食べていたこの肉が食えなくなった。
 本当にこういうことあるのです。
 突然、身体がうけつけなる。
 どうしてかわからない。
 その後はサカナの切り身に切り替えた。
 この辺のスーパーで必ず売っているのが「スモークコッド」。
 スモークしたタラの切り身。
 タラはもともと好きなサカナなのでこればかり食っていたときがある。
 そしてまた突然、サカナの骨が食いたくなってきた。


● サンマ

 そこでサンマを買ってきて、食べたあとの骨をカリカリに焼いて食べた。
 いやいや、この感触・味覚、つくづく日本人だと思う。
 それも貧乏人の。
 がである、いくらカリカリにしてもサンマの頭は焼いても食えない。
 いろいろ本は読んだが、その中にサンマの頭の食い方というのはなかったように思う。
 あまり焼くと、炭になる。
 その手前でオコゲができるが、これはガンの元になるという。
 死ぬのはいいが、苦しむのは嫌いだから、苦しまないガンならいい。
 オコゲのガンはどちらだろうか。
 しかし、オコゲ状態でもサンマの頭はどうにも食えない。

 さて、メザシだが。
 お正月だからといってメザシを食べるわけではない。
 日頃、メザシを食べているのだ。
 サカナの頭を食いたいと思い、「食べるニボシ」を買ってきた。
 これはいい。
 食べるにぼしは、酒のおつまみの類のなかにも入っているが、これはかちかちにミリンづけにしたもののようで、いまいちである。
 でも、ときどきというよりほとんど「食べるニボシ」は店頭で切れている。
 それに、これやたらと高い。
 普通のニボシを買ってきて焼いて食べたが、これおいしくない。
 サカナの種類が違うようでダシ用のはまずい魚である。
 あまり手が出ない。
 ダシをとったら捨てる魚であるからしかたがない。
 どうも「ニボシ」といっても食べるニボシの魚種は相当な高級魚のようである。

 ニボシからメザシは名前のごとくたった一歩。
 食べるニボシはいくら言ってもおやつである。
 おかずとなれば、メザシそしてシシャモ。
 どちらも頭から食える。

 ではなぜ、サカナの骨が食いたくなったのか。
 いろいろ考えてみた。
 出てきた答えが「牛乳の摂り過ぎ」。
 つまり、溶けつつある骨を、サカナの骨で補強しようと遺伝子が動きはじめているのではないかということだ。
 牛乳の悪さを魚で補おうとしているのではあるまいか。
 つまり、遺伝子はまだ「生きろ、生きろ」といっているのである。
 「憎まれっ子、世にはばかる」というわけである。

 ときどきメザシばかり食べていると、ふと虚しくなることがある。
 どうもメザシというのは、子ども時代の貧しさを連想してしまうのだ。
 こういうときは、シシャモにする。
 なんとなく豪華な気分になる。
 なにしろ腹にタマゴをかかえており末広がりに「めでたい」のである。
 ならシシャモだけでもいいのではないか、と思われるかもしれない。
 もちろんシシャモだけにしても我が家の家計が潰れるわけではない。
 ありがたいことに、子ども時分よりは遙かに経済的余裕はある。
 だがどうも、歯に感じるシシャモの骨あたりが弱いのだ。
 溶けつつある骨を補強してくれるのは、シシャモではとうていだめで、素朴なメザシの骨でないといけないのではないかと思われるのである。


● シシャモ

 まあそんなことで、
 「メザシ、ときどきシシャモ」
が常食となっているわけである。
 そしてそれは、お正月も変わらないのである。




 [かもめーる]




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